【第9回】終劇
※このブログは本日(2021/07/21)にほとんどの劇場で公開が終了する映画「シン・エヴァンゲリオン劇場版」についての感想的な記事です。
もちろん皆さん見終わっているかもしれませんが、8月にAmazonprimeで配信が決定されているのでそれでみたいという方はこのブログは閲覧されない方がいいです。
後割とにわかなところもあるので気をつけてください(保険)
①ここにいてもいい理由
アニメ弐拾六話「世界の中心で愛を叫んだけもの」、旧劇場版26話「まごころを、君に」と続く最終回の第3作目。
前2作では割と「ここにいてもいい理由」ということを中心に描かれていたと思うのですが、シンではそれに関しては序盤に描かれていました。
「ここにいてもいい理由」、前2作では「自分がここにいたいから」という『自分の意志』がメインとして描かれていましたが、今作では「碇君が好きだから」と『他者の意志』というか単純に「好き」という感情が碇シンジの存在理由となっています。
今作での新劇場版破→Qの流れでニアサードインパクト、フォースインパクトと2度も世界を滅ぼしかけ、綾波レイを救えず渚カヲルが目の前で死ぬ光景を見てしまった碇シンジはいわゆる失語症・鬱のような状態になっていしまいます。
そのシンジに対してケンスケやトウジなどの元同級生(第三村の住人)やアヤナミレイ(仮称)、式波・アスカ・ラングレーらはそれぞれの優しさでシンジの心を少しずつほぐしていきます。
そんな中全部自分のせいですべてを壊したからともう誰にも話してほしくない、何もしたくないシンジはアヤナミレイに対して「なんでみんなそんなに優しいんだよ、、、」と叫びます。
それに対しての回答が
碇君が好きだから
これまでエヴァに乗ることでしか自分の存在意義を見出せず、「他人が見ている碇シンジ」=「エヴァに乗っている碇シンジ」だと思っていたのが、実はそんな物差しがなくても自分のことを好きでいてくれる人はいたということに気づきます。
相補性のある世界
これまでのシンジは自分の世界だけでふさぎこみ、自分の中だけで苦しんでいました。
そういった中で初めて自分のことを他者に聞くことによって実はそんなことがなかったということが分かります。
自分の世界を持つことももちろん大事ですが、社会の中で生きていくうえで他人に歩み寄ることがとても大切になるわけです(これに対照的なのが人類補完計画)
それからのシンジは仲良くなるおまじないを自分から積極的に行うようになります。
「大人」になるとは
シンエヴァの最後は「エヴァがなくていい世界」で真希波・マリ・イラストリアスが差し伸べた手を取り、宇部駅のホームから外に走り出すという印象的なものです。
自分の犯した罪に対して落とし前をつけたうえで、他人との相補性がある世界を創り、新しい世界へ走り出すという終わり方は世界を書き換えた「意思」の力を強く感じます。
走り出した後のシンジにはこれからいろんな楽しいこともつらいこともいろいろなことが訪れると思いますが、だれかと手を取り合って自分の意志で決めていくんだと思います。
大学の最後の年で素晴らしい作品に出会えてよかったなと改めて考えました。
さようなら、すべてのエヴァンゲリオン